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訃報 ヨハン・クライフ氏

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オランダの伝説ヨハン・クライフ氏が死去

ヨハン・クライフ氏が24日バルセロナにて死去した。同氏の公式サイトが伝えている。68歳だった。
クライフ氏はオランダ代表とアヤックス、バルセロナといったクラブで活躍。1974年ワールドカップではチームの中心として準優勝に貢献。指導者としても類稀な才能を発揮し、バルセロナでUEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制覇。「トータル・フットボール」を志向したドリーム・チームを作り上げ、現代サッカーに大きな影響を与えた。
2015年より肺癌を患っていることを明かし、闘病生活を送っていた。24日、公式サイトは「家族に囲まれて息を引き取った」と発表している。

フットボールチャンネル
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1974年のワールドカップは自分にとって初めてのワールド・カップ。世界にはオリンピックよりも大きいスポーツ・イベントがあると知ったものの当時の日本での報道はまったくマイナーで情報を集めるのもままなりません。スポーツ紙の小さな記を切り抜き、あとは「サッカーマガジン」などでグラビア、記事を楽しむ事くらいでした。本当に今は良い時代になりました。

ご冥福をお祈りいたします。




1974 FIFAワールドカップ

翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ(英語版)を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを人選した。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。

1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。

2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。

試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し、これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する[と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。

私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている。 — ヨハン・クライフ

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