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訃報 近藤昭仁さん

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近藤昭仁さん死去 60年大洋で日本シリーズMVP、横浜&ロッテで監督

大洋(現DeNA)の二塁手として1960年の日本一に貢献し、横浜(大洋の後身)とロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)氏が27日、敗血症性ショックのため死去した。80歳。香川県出身。通夜は31日午後6時、葬儀・告別式は4月1日正午、横浜市鶴見区鶴見2の1の1、総持寺三松閣で。喪主は妻、由紀子(ゆきこ)さん。

日本一チームで1番を打ち、引退後は計5球団で監督、コーチを務めた近藤昭仁氏が、天国へと旅立った。
早大から1960年に大洋へ入団すると、同郷で早大の先輩でもある名将、三原脩監督が就任した。前年まで6年連続最下位のチームは開幕6連敗。早大時代と同じ背番号「1」をつけた近藤氏が、二塁手に抜擢(ばってき)された。168センチと小柄ながら、1年目は117試合に出場。終盤戦は1番を打ち、初のリーグ優勝に貢献した。
大仕事を成し遂げたのは大毎(現ロッテ)との日本シリーズだ。第3戦で勝ち越し本塁打、第4戦でも先制適時打を放ち、チームは4連勝で日本一。わずか3安打でMVPに選ばれ、「僕はもらえない。たくさんの先輩に悪い」とはにかみながら、賞品の自動車のボンネットに座った。



62年のシーズン後には、お姫様女優として売り出し中だった北沢典子(本名・由紀子)と結婚し、世間を驚かせた。
74年に引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人でコーチを歴任。球団名が大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わった93年に、監督で古巣に戻った(5、6、4位)。
97年からロッテで監督を務めたが、1年目は最下位(セ、パ両リーグで最下位になったのは史上4人目)。98年は6月13日のオリックス戦から7月8日のオリックス戦まで18連敗(1分けを挟む)のプロ野球ワースト記録を作った。
当時の連敗記録(16)に並んで迎えた7日のオリックス戦は黒木が力投したが、完投勝利目前の九回2死一塁から同点2ランを喫し、マウンドに崩れ落ちた。そして延長十二回にサヨナラ負けし、プロ野球記録を更新。翌日も敗れ、連敗は「18」に伸びた。
結局、2年連続最下位で、この年限りで退任。監督としては、一度もAクラスに入れなかった。


サンケイスポーツ
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流石に1960年のシリーズは見てないが、野球を見始めた頃、大洋には天秤打法の近藤和彦、犠打名人の近藤昭仁、若い松原誠など魅力的な選手が多かった。
中学になってドラゴンズファンから宗旨変えした事には多分にその好イメージが残っていた事が要因ともいえる。
監督としては良い成績は残さなかったけれど38年ぶりの優勝の中心となる選手たちが育っていく過程のベイスターズもまた魅力的で、最も足しげくハマスタに通ったのも(年4,5試合だが)近藤昭仁監督時代。
当時は別に監督には興味無かったけどさ。

偉大なる名選手。ご冥福をお祈りいたします。






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