「フランス映画の現在」
「スイミングプール」2003年 仏 監督:フランソワ・オゾン
創作活動に行き詰まっていたイギリスの女流ミステリー作家サラはある夏の日、出版社社長ジョンの勧めで南仏の彼の別荘を訪れる。そこは明るく静かで、誰にも邪魔されずに執筆できる最適な場所だった。しかし、サラがいよいよ仕事に取り掛かろうとした矢先、社長の娘ジュリーが別荘にやって来る。裸でプールを泳ぎ、毎夜男を連れ込んでは嬌声をあげるジュリーに苛立ち筆が進まないサラ。だがやがてサラは、ジュリーの若さと妖艶な振る舞いに強い刺激を受け、いつしか彼女をモデルに物語を紡ぎ始めるのだった…。
オゾン2本目。
この物語の真相や謎解きは全て鑑賞者に委ねられる作りになっていて、映画鑑賞語もああでもないこうでもないと議論を戦わせる楽しみまでも与えられている。
観ている時と観終わった後と、場合によっては(DVD等では尚更)確認のため何度もプレイバックして見る楽しみまで与えられるという贅沢な代物。
いかようにも解釈できるように仕掛けてあるため、逆にどんな解釈をしても何処かに矛盾点や辻褄が合わない部分が必ず出てくるように思う。
勿論、製作者だけが知っている正解などというものはそもそも存在しないのであろうから、これはまったくオゾンに踊らされている感じで、忌々しい思いまでしてくるではないか。
見ている間は漠然とジュリーとのエピソードは作家サラの作り上げた虚構のエピソードなんだろうなぁとか思いながらも、だんだんその虚構の世界に嵌りきってしまって、虚構と現実の境界線が曖昧になっていく感覚・・・。
そんな中、突然出版社社長のジュリーとよく似た名ジュリアという歯を矯正した娘が登場してきて、回想シーンではジュリーとジュリアが入れ替わりながらサラに手を振っている。
???あ〜、もうなんだか解らなくなってきたぞ。
正解というものが釈然としないと気の済まないタイプの人は、相当イライラするんでないの。
こちとらはそもそも、そういう面倒臭いことはどうでも良いし、難解さを単純に楽しんじゃう口なので、問題なし。
意味深なパソコン接続シーン、キーボードに入力する指先のシーン、壁にかかった十字架の意味、プールの覆いを剥がす行為と水面の反射・・・。
また、考えるのが面倒な人や釈然としないと気の済まない方に対しては、ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)の抜群な肢体という大サービスが用意されているので、ただただサニエ嬢のビキニやヌードに見惚れてしまうという楽しみ方だってある。
それだけでもこの映画の価値はあろうと言うもんだ。
リュディヴィーヌ・サニエ。この前に見た「焼け石に水」の時とはまた全然違う、ナイス・プロポーションに成長している。
そのナイス・バディの彼女が引っ張り込む村の男連中が、どいつも醜い肢体だったりするのも気が利いてる。
サラ役のシャーロット・ランプリング・・・「愛の嵐」の彼女が中年、いや、初老の女流作家。いい塩梅に年を重ねられています。
後半にはきっちりヘア・ヌードで横たわっていただいたりもしていますが、こっちは何もそこまでというか、ストーリー的にも無くてもよさそう。裸の方は、すべてリュディヴィーヌ・サニエに任せておけば良かったに・・・と思っちゃいました。
なんだか、フランソワーズ・オゾンって、ずるいなぁと思いながら、唸ってしまいます。
シネマヴェーラ渋谷
「スイミングプール」2003年 仏 監督:フランソワ・オゾン
創作活動に行き詰まっていたイギリスの女流ミステリー作家サラはある夏の日、出版社社長ジョンの勧めで南仏の彼の別荘を訪れる。そこは明るく静かで、誰にも邪魔されずに執筆できる最適な場所だった。しかし、サラがいよいよ仕事に取り掛かろうとした矢先、社長の娘ジュリーが別荘にやって来る。裸でプールを泳ぎ、毎夜男を連れ込んでは嬌声をあげるジュリーに苛立ち筆が進まないサラ。だがやがてサラは、ジュリーの若さと妖艶な振る舞いに強い刺激を受け、いつしか彼女をモデルに物語を紡ぎ始めるのだった…。
オゾン2本目。
この物語の真相や謎解きは全て鑑賞者に委ねられる作りになっていて、映画鑑賞語もああでもないこうでもないと議論を戦わせる楽しみまでも与えられている。
観ている時と観終わった後と、場合によっては(DVD等では尚更)確認のため何度もプレイバックして見る楽しみまで与えられるという贅沢な代物。
いかようにも解釈できるように仕掛けてあるため、逆にどんな解釈をしても何処かに矛盾点や辻褄が合わない部分が必ず出てくるように思う。
勿論、製作者だけが知っている正解などというものはそもそも存在しないのであろうから、これはまったくオゾンに踊らされている感じで、忌々しい思いまでしてくるではないか。
見ている間は漠然とジュリーとのエピソードは作家サラの作り上げた虚構のエピソードなんだろうなぁとか思いながらも、だんだんその虚構の世界に嵌りきってしまって、虚構と現実の境界線が曖昧になっていく感覚・・・。
そんな中、突然出版社社長のジュリーとよく似た名ジュリアという歯を矯正した娘が登場してきて、回想シーンではジュリーとジュリアが入れ替わりながらサラに手を振っている。
???あ〜、もうなんだか解らなくなってきたぞ。
正解というものが釈然としないと気の済まないタイプの人は、相当イライラするんでないの。
こちとらはそもそも、そういう面倒臭いことはどうでも良いし、難解さを単純に楽しんじゃう口なので、問題なし。
意味深なパソコン接続シーン、キーボードに入力する指先のシーン、壁にかかった十字架の意味、プールの覆いを剥がす行為と水面の反射・・・。
また、考えるのが面倒な人や釈然としないと気の済まない方に対しては、ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)の抜群な肢体という大サービスが用意されているので、ただただサニエ嬢のビキニやヌードに見惚れてしまうという楽しみ方だってある。
それだけでもこの映画の価値はあろうと言うもんだ。
リュディヴィーヌ・サニエ。この前に見た「焼け石に水」の時とはまた全然違う、ナイス・プロポーションに成長している。
そのナイス・バディの彼女が引っ張り込む村の男連中が、どいつも醜い肢体だったりするのも気が利いてる。
サラ役のシャーロット・ランプリング・・・「愛の嵐」の彼女が中年、いや、初老の女流作家。いい塩梅に年を重ねられています。
後半にはきっちりヘア・ヌードで横たわっていただいたりもしていますが、こっちは何もそこまでというか、ストーリー的にも無くてもよさそう。裸の方は、すべてリュディヴィーヌ・サニエに任せておけば良かったに・・・と思っちゃいました。
なんだか、フランソワーズ・オゾンって、ずるいなぁと思いながら、唸ってしまいます。
シネマヴェーラ渋谷