原田英彦 龍谷大平安監督
1960年京都市生まれ。京都市立九条中から平安高校へ進む。平安の長期低迷時代、2年の秋に京都大会を制して近畿大会に出場したが、初戦の天理に1対3で敗れ、甲子園出場はならなかった。卒業後、日本新薬へ進み、俊足の外野手として活躍。都市対抗に10度出場しプロからも誘われる選手だった。'93年秋、母校の監督に就任。
甲子園の名物監督、平安 原田英彦
昨秋の近畿大会で魅力に嵌り今年は平安を追いかけようと決めていたら、まさかの春初優勝。
原田監督は強面のえらいゴツイ体格の監督でおっかなそうなイメージしか持ってなかったけれど、今回の優勝による一連報道で、その、一平安ファンとしてのコメントやエピソードが優秀ですっかり気に入りました。
同年代だし、古豪ファンの身としては親近感が沸くんです。
あの純白のユニフォームは本当にカッコ良かった。バリオというメーカーだったらしいです。
そういえば一本足の渋谷通(元広島カープ)の頃から平安は憧れの的でした。
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あれ、儀式っちゅうか、私が新ユニフォームを「絶対着ぃひん」言うて、「こんなん(袖に龍谷大学と)入っとんは、絶対着ぃひん」って袖を通さなかったんです。私は、胸に「HEIAN」の5文字だけのユニフォームに憧れてやってましたから、袖に文字やマークの入ったユニフォームは、よう着んと言うたんです。
ユニフォームを変えるという話が出た当初、「龍大と同じ縦縞にしろ」とか、帽子のマークも「R」にせいというバカがおったんですよ。最終的には袖に「龍谷大学」とだけ入るユニフォームになったんですけど、それでも抵抗感があったですね。
でも、「着な、ゲームできへんなぁ」言うて、「オレ、自分で着んの嫌やし、お前、着させい」と山口に着させてもらったんです。「オレは、自分で着たんと違うぞ。お前が着さしたんや。お前の責任や」と言うたら、山口が「どないして責任取るんですか」と言うてましたけど。
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原田監督「ラスト平安...」の言葉で万感胸に迫る
袖に龍谷大の文字を入れてもいいけど、甲子園に出場する時は呼称は平安高校でいいなじゃないかと思う。
一時期、星稜が袖に金沢経済大学と入れていたけど呼称は星稜高校だったじゃないですか。
中京大中京も大体大浪商も関大北陽も甲子園だけ呼称は昔のままちゅうわけにいかんのかね。
選抜高校野球を制した龍谷大平安 原田監督の男泣きを誘ったサプライズ
21年分の思いが詰まっていた。4月2日に選抜高校野球で優勝した龍谷大平安高校。春38度目の出場で頂点に立った。原田英彦監督の「平安のファンとして本当にうれしい」と声を上ずらせた優勝インタビュー、そして3度宙に舞った胴上げは3塁側アルプス席のファンの心に響くラストシーンとなった。
男の涙!感動!龍谷大平安 原田英彦監督優勝インタビュー
原田監督は決勝前夜、「俺は優勝したら、泣くからな」と選手たちに宣言。選手たちは「監督を泣かせよう」を合言葉に戦った。しかし、実際のところは監督の目に涙はなかった。指揮官は「選手たちが淡々とやっているのを見ていたら、何だか泣けなかったんですよね」と冷静だった教え子たちのプレーにただただ引き込まれていた。
1993年に監督に就任。当初はあり得ない事態の繰り返しだったという。ひとつはスパイク事件。ある雨の日のことだった。
「彼らのスパイクの裏を見たら、金具がないんです。驚きましたよ」
スパイクの裏はまったくの平坦だったのだ。これでは力が入らないし、スタートも切れない。
「なんじゃこれ? お前、金具ないじゃないか」
そう問い詰めると「今日、雨が降ってるんで」と生徒から返ってきた。いいスパイクだから金具を汚したくないというのが理由だった。
「お前、何しに来たんだ」
原田監督は呆れてものも言えなかった。内心では、はらわたが煮えくり返っていた。この生徒に対してではない。「こんな平安に誰がしたんや」。幼少のことから強い平安に憧れて、自分自身も門を叩いた。3年間必死にプレーした。甲子園には出場できなかったが、平安のユニホームで戦えたことが誇りだった。しかし、就任当時の生徒たちは戦う集団とはほど遠かった。
野球以前の問題だった。原田監督は一から立て直した。「自分自身でチームの課題を挙げたら61個あったんです。消去法ですよね」。道具の扱い方、キャッチボール、スイング、ボールの捕球の仕方、グラウンドへ入る姿。細かい所まで指導した。
「根気強く、選手たちと葛藤してクリアしていきましたね。自分自身にもパワーがあった」
今でも選手よりもウエートトレーニングをしていて、バーベルを上げることができる53歳。胸囲は驚異の114センチだ。
「何させても、自分の方が打てるし、守れるし、走れる。気持ちのパワーは現役時代からあったし、生徒たちには負けなかったですよね」
気力、体力は高校生には負けなかった。
「1年目から見た子が一番犠牲になったと思うんです。平安を何とかしたい。自分の後輩という思いが強かった」
送球、捕球の基本であるベース間のボール回しを夕方5時から11時まで徹底的にやり続けた。選手たちを終電ギリギリまで指導し、深夜0時前に駅まで選手たちと走り、電車に飛び乗った。
「当時は網なしグラブ、ひもがないグラブを使っていた」とグラブの芯や手のひらの真ん中でボールを収めないと捕球できない仕様のグラブを使わせた。一塁まわり50回。三塁まわり50回。ノーエラーでないと終わらない。
選手たちも必死だった。「網の部分がないのでね、冬場、『腫れます』という子がたくさんいましたよ」と基本を叩き込んだことをよく覚えているという。
今年の春の選抜で優勝をして何を一番思い出すかと問われると、原田監督は真っ先に「教え子」と答えた。1年目に指導した練習風景がしみじみと頭に浮かぶ。これまで300人ほど指導してきた。
「僕の中では彼らは愛おしい存在。自分の子だと思っている。僕はどこでも教え子を『平安の子、平安の子』と言っている。ファミリーなんですよね。結婚式に呼ばれたりすると、自分の大きな財産だなとその子たちのことを感じますね」
そう言ってファミリーという言葉に力を込めた。
年月を経た今、野球指導は「子育て」に近い感覚だという。原田監督自身も年を重ね、教える対象が自分の息子のような世代になってきたからである。
「世の中、だいぶ変わっている。今の子と昔は違う。育った環境、社会が違う。僕は何をせなあかんのかと考えた時、自立させて卒業させることを大切にしている。将来のことも考える。自分自身も、野球に厳しく育ててもらったから今がある」
それはこれからも変わらない。だからこそ、今春の優勝はファミリー全員で勝ち取ったものだった。
そして、優勝してから数日が経過した後のことだった。思ってもみない出来事が原田監督の身に起こった。龍谷大平安ボールパークのグラウンドに原田監督には内緒で、21年間の「ファミリー」、つまり教え子の有志たちが、優勝を祝いに集まっていた。みんなで声を掛け合っていたのだった。
グラウンドに指揮官が現れると、現役部員たちが並ぶ。そしてまずは彼らの手によって21回、胴上げされた。
優勝する前に冗談で監督は「(監督生活の)21年分の21回、胴上げしてくれよ」と言っていたのだが、実際には3回で終わっていた。「3回でしたね。(自分の身体が)重かったのかな」と笑っていたが、メンバーたちは監督の願い通りの回数を、2度目の胴上げで叶えてくれた。
そして、今度はOBたちの手によって、原田監督の胴上げが始まった。甲子園の三塁側で舞った後は出なかった涙が、この時はもう抑えられなかった。みんながグラウンドに帰ってきてくれたこともうれしかった。両手で顔を覆う原田監督。歴代のOBたちはオヤジの泣き顔を最高の笑顔で見守っていた。
お前ら、最高や。
原田監督は改めて平安の子どもたちを誇りに思った。
『わが野球観をざっくばらんに語り尽くす』
1960年京都市生まれ。京都市立九条中から平安高校へ進む。平安の長期低迷時代、2年の秋に京都大会を制して近畿大会に出場したが、初戦の天理に1対3で敗れ、甲子園出場はならなかった。卒業後、日本新薬へ進み、俊足の外野手として活躍。都市対抗に10度出場しプロからも誘われる選手だった。'93年秋、母校の監督に就任。
甲子園の名物監督、平安 原田英彦
昨秋の近畿大会で魅力に嵌り今年は平安を追いかけようと決めていたら、まさかの春初優勝。
原田監督は強面のえらいゴツイ体格の監督でおっかなそうなイメージしか持ってなかったけれど、今回の優勝による一連報道で、その、一平安ファンとしてのコメントやエピソードが優秀ですっかり気に入りました。
同年代だし、古豪ファンの身としては親近感が沸くんです。
あの純白のユニフォームは本当にカッコ良かった。バリオというメーカーだったらしいです。
そういえば一本足の渋谷通(元広島カープ)の頃から平安は憧れの的でした。
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あれ、儀式っちゅうか、私が新ユニフォームを「絶対着ぃひん」言うて、「こんなん(袖に龍谷大学と)入っとんは、絶対着ぃひん」って袖を通さなかったんです。私は、胸に「HEIAN」の5文字だけのユニフォームに憧れてやってましたから、袖に文字やマークの入ったユニフォームは、よう着んと言うたんです。
ユニフォームを変えるという話が出た当初、「龍大と同じ縦縞にしろ」とか、帽子のマークも「R」にせいというバカがおったんですよ。最終的には袖に「龍谷大学」とだけ入るユニフォームになったんですけど、それでも抵抗感があったですね。
でも、「着な、ゲームできへんなぁ」言うて、「オレ、自分で着んの嫌やし、お前、着させい」と山口に着させてもらったんです。「オレは、自分で着たんと違うぞ。お前が着さしたんや。お前の責任や」と言うたら、山口が「どないして責任取るんですか」と言うてましたけど。
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原田監督「ラスト平安...」の言葉で万感胸に迫る
袖に龍谷大の文字を入れてもいいけど、甲子園に出場する時は呼称は平安高校でいいなじゃないかと思う。
一時期、星稜が袖に金沢経済大学と入れていたけど呼称は星稜高校だったじゃないですか。
中京大中京も大体大浪商も関大北陽も甲子園だけ呼称は昔のままちゅうわけにいかんのかね。
選抜高校野球を制した龍谷大平安 原田監督の男泣きを誘ったサプライズ
21年分の思いが詰まっていた。4月2日に選抜高校野球で優勝した龍谷大平安高校。春38度目の出場で頂点に立った。原田英彦監督の「平安のファンとして本当にうれしい」と声を上ずらせた優勝インタビュー、そして3度宙に舞った胴上げは3塁側アルプス席のファンの心に響くラストシーンとなった。
男の涙!感動!龍谷大平安 原田英彦監督優勝インタビュー
原田監督は決勝前夜、「俺は優勝したら、泣くからな」と選手たちに宣言。選手たちは「監督を泣かせよう」を合言葉に戦った。しかし、実際のところは監督の目に涙はなかった。指揮官は「選手たちが淡々とやっているのを見ていたら、何だか泣けなかったんですよね」と冷静だった教え子たちのプレーにただただ引き込まれていた。
1993年に監督に就任。当初はあり得ない事態の繰り返しだったという。ひとつはスパイク事件。ある雨の日のことだった。
「彼らのスパイクの裏を見たら、金具がないんです。驚きましたよ」
スパイクの裏はまったくの平坦だったのだ。これでは力が入らないし、スタートも切れない。
「なんじゃこれ? お前、金具ないじゃないか」
そう問い詰めると「今日、雨が降ってるんで」と生徒から返ってきた。いいスパイクだから金具を汚したくないというのが理由だった。
「お前、何しに来たんだ」
原田監督は呆れてものも言えなかった。内心では、はらわたが煮えくり返っていた。この生徒に対してではない。「こんな平安に誰がしたんや」。幼少のことから強い平安に憧れて、自分自身も門を叩いた。3年間必死にプレーした。甲子園には出場できなかったが、平安のユニホームで戦えたことが誇りだった。しかし、就任当時の生徒たちは戦う集団とはほど遠かった。
野球以前の問題だった。原田監督は一から立て直した。「自分自身でチームの課題を挙げたら61個あったんです。消去法ですよね」。道具の扱い方、キャッチボール、スイング、ボールの捕球の仕方、グラウンドへ入る姿。細かい所まで指導した。
「根気強く、選手たちと葛藤してクリアしていきましたね。自分自身にもパワーがあった」
今でも選手よりもウエートトレーニングをしていて、バーベルを上げることができる53歳。胸囲は驚異の114センチだ。
「何させても、自分の方が打てるし、守れるし、走れる。気持ちのパワーは現役時代からあったし、生徒たちには負けなかったですよね」
気力、体力は高校生には負けなかった。
「1年目から見た子が一番犠牲になったと思うんです。平安を何とかしたい。自分の後輩という思いが強かった」
送球、捕球の基本であるベース間のボール回しを夕方5時から11時まで徹底的にやり続けた。選手たちを終電ギリギリまで指導し、深夜0時前に駅まで選手たちと走り、電車に飛び乗った。
「当時は網なしグラブ、ひもがないグラブを使っていた」とグラブの芯や手のひらの真ん中でボールを収めないと捕球できない仕様のグラブを使わせた。一塁まわり50回。三塁まわり50回。ノーエラーでないと終わらない。
選手たちも必死だった。「網の部分がないのでね、冬場、『腫れます』という子がたくさんいましたよ」と基本を叩き込んだことをよく覚えているという。
今年の春の選抜で優勝をして何を一番思い出すかと問われると、原田監督は真っ先に「教え子」と答えた。1年目に指導した練習風景がしみじみと頭に浮かぶ。これまで300人ほど指導してきた。
「僕の中では彼らは愛おしい存在。自分の子だと思っている。僕はどこでも教え子を『平安の子、平安の子』と言っている。ファミリーなんですよね。結婚式に呼ばれたりすると、自分の大きな財産だなとその子たちのことを感じますね」
そう言ってファミリーという言葉に力を込めた。
年月を経た今、野球指導は「子育て」に近い感覚だという。原田監督自身も年を重ね、教える対象が自分の息子のような世代になってきたからである。
「世の中、だいぶ変わっている。今の子と昔は違う。育った環境、社会が違う。僕は何をせなあかんのかと考えた時、自立させて卒業させることを大切にしている。将来のことも考える。自分自身も、野球に厳しく育ててもらったから今がある」
それはこれからも変わらない。だからこそ、今春の優勝はファミリー全員で勝ち取ったものだった。
そして、優勝してから数日が経過した後のことだった。思ってもみない出来事が原田監督の身に起こった。龍谷大平安ボールパークのグラウンドに原田監督には内緒で、21年間の「ファミリー」、つまり教え子の有志たちが、優勝を祝いに集まっていた。みんなで声を掛け合っていたのだった。
グラウンドに指揮官が現れると、現役部員たちが並ぶ。そしてまずは彼らの手によって21回、胴上げされた。
優勝する前に冗談で監督は「(監督生活の)21年分の21回、胴上げしてくれよ」と言っていたのだが、実際には3回で終わっていた。「3回でしたね。(自分の身体が)重かったのかな」と笑っていたが、メンバーたちは監督の願い通りの回数を、2度目の胴上げで叶えてくれた。
そして、今度はOBたちの手によって、原田監督の胴上げが始まった。甲子園の三塁側で舞った後は出なかった涙が、この時はもう抑えられなかった。みんながグラウンドに帰ってきてくれたこともうれしかった。両手で顔を覆う原田監督。歴代のOBたちはオヤジの泣き顔を最高の笑顔で見守っていた。
お前ら、最高や。
原田監督は改めて平安の子どもたちを誇りに思った。
『わが野球観をざっくばらんに語り尽くす』