「どくとるマンボウ」の北杜夫さん死去
どくとるマンボウの愛称で人気を集めた作家・北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)さんが24日午前6時2分、腸閉塞のため東京都内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻・斎藤喜美子(きみこ)さん。
体調を崩して23日に入院した後、容体が急変。帰らぬ人となった。歌人・斎藤茂吉の次男で、兄は精神科医でエッセイストとして知られた斎藤茂太氏。東京に生まれ、旧制松本高校、東北大医学部を出て医師として働くとともに、学生時代に読んだ父の歌集などに影響を受け、作家を志した。
船医として調査船に乗り組んだ体験を基に書いた1960年の「どくとるマンボウ航海記」がベストセラーとなり、一躍人気作家に。ユーモアに富んだ文体が話題となったが、同年、ナチス支配下の精神科医の悲劇を描いた純文学作品「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。硬軟を自在に使い分ける作家として知られた。
生涯で約130冊の著作を残したが、そのうち約50冊は、代名詞の「マンボウ」がタイトルの一部に。後輩作家・畑正憲氏の愛称「ムツゴロウ」は、マンボウ人気にあやかってデビュー当時の編集者から命名された。
阪神ファンとしても有名で、2003年にリーグ制覇を達成した翌年には「マンボウ阪神狂時代」を出版。テレビ観戦の際に「ヨガのポーズで念力を照射し」失点を防いだ、などと記している。
ひどい腰痛を抱えていた十数年前には、年賀状に「ではさようなら。世を捨てた北杜夫」と記したが、なかなか別れの日は来ず「世を捨てるとストレスがない。長生きしてしまった」と苦笑していたという。
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北 杜夫(きた もりお、1927年5月1日 - 2011年10月24日)
中学生の頃、読みまくった、と言うほどじゃないが、けっこう読んだ。
最初は「どくとるマンボウ航海記」
そのうち「高みの見物」を読んで嵌った。一気に読んだ。
カウンターの寿司屋に行きたいと親にせがんだ。
あの読書体験が無ければ、文庫本読書という事に無縁のままだったかも、と言っても過言じゃない。
当時の心情からして青春記というのは嫌う傾向があったのに、どくとるマンボウとショージ君のは許せた。
当時、勢いでトーマス・マンにまで手を出したが、これは見事に撃沈!
仲間うちでチーム名を「奇病連盟」(これは読んだが、ピンと来なかった)と名乗ったりしていた事もあったので、あきらかにブームだったんでしょう。
心酔していたんだろうけど、その後、筒井先生や立川談志家元に触れてからは北杜夫に立ち返る事は無かった。
追悼の意味で、久しぶりに何か未読のものを読んでみようかと思う。芥川賞受賞作は読んでなかったはずだ。
「楡家の人々」は再読してもよいかと思う。ほとんど憶えてない事だし。
ご冥福をお祈りいたします。
どくとるマンボウの愛称で人気を集めた作家・北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)さんが24日午前6時2分、腸閉塞のため東京都内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻・斎藤喜美子(きみこ)さん。
体調を崩して23日に入院した後、容体が急変。帰らぬ人となった。歌人・斎藤茂吉の次男で、兄は精神科医でエッセイストとして知られた斎藤茂太氏。東京に生まれ、旧制松本高校、東北大医学部を出て医師として働くとともに、学生時代に読んだ父の歌集などに影響を受け、作家を志した。
船医として調査船に乗り組んだ体験を基に書いた1960年の「どくとるマンボウ航海記」がベストセラーとなり、一躍人気作家に。ユーモアに富んだ文体が話題となったが、同年、ナチス支配下の精神科医の悲劇を描いた純文学作品「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。硬軟を自在に使い分ける作家として知られた。
生涯で約130冊の著作を残したが、そのうち約50冊は、代名詞の「マンボウ」がタイトルの一部に。後輩作家・畑正憲氏の愛称「ムツゴロウ」は、マンボウ人気にあやかってデビュー当時の編集者から命名された。
阪神ファンとしても有名で、2003年にリーグ制覇を達成した翌年には「マンボウ阪神狂時代」を出版。テレビ観戦の際に「ヨガのポーズで念力を照射し」失点を防いだ、などと記している。
ひどい腰痛を抱えていた十数年前には、年賀状に「ではさようなら。世を捨てた北杜夫」と記したが、なかなか別れの日は来ず「世を捨てるとストレスがない。長生きしてしまった」と苦笑していたという。
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北 杜夫(きた もりお、1927年5月1日 - 2011年10月24日)
中学生の頃、読みまくった、と言うほどじゃないが、けっこう読んだ。
最初は「どくとるマンボウ航海記」
そのうち「高みの見物」を読んで嵌った。一気に読んだ。
カウンターの寿司屋に行きたいと親にせがんだ。
あの読書体験が無ければ、文庫本読書という事に無縁のままだったかも、と言っても過言じゃない。
当時の心情からして青春記というのは嫌う傾向があったのに、どくとるマンボウとショージ君のは許せた。
当時、勢いでトーマス・マンにまで手を出したが、これは見事に撃沈!
仲間うちでチーム名を「奇病連盟」(これは読んだが、ピンと来なかった)と名乗ったりしていた事もあったので、あきらかにブームだったんでしょう。
心酔していたんだろうけど、その後、筒井先生や立川談志家元に触れてからは北杜夫に立ち返る事は無かった。
追悼の意味で、久しぶりに何か未読のものを読んでみようかと思う。芥川賞受賞作は読んでなかったはずだ。
「楡家の人々」は再読してもよいかと思う。ほとんど憶えてない事だし。
ご冥福をお祈りいたします。