「アンチクライスト」2009年 丁・独・仏・瑞・伊・波 監督:ラース・フォン・トリアー
愛し合っている最中に愛する息子を事故で失った夫婦。深い悲しみと自責の念からしだいに神経を病んでいく妻。セラピストの夫はそんな妻を森の中の山小屋に連れて行き治療しようと試みるが、事態は更に悪化していく。彼らが「エデン」と呼ぶ山小屋に救いを求めた現代のアダムとイブが、愛憎渦巻く葛藤の果てにたどりついた驚愕の結末とは・・・?
ラース・フォン・トリアー監督の衝撃の新作、エログロ目当てで観に行ったけど、そんな事は吹っ飛んでしまう、どえらい作品でした。
かなり難解な作品で、こういった場合、思考停止状態で考えるのではなく感じる事に専念するという手があるけど、暗喩やヒントが多く含まれ、ついつい無い頭で考えてしまう。
監督の意図、正解にはたどり着けない(正解など無いとも言える)が、ちょっと勝手な解釈をしたりして・・・無駄な抵抗。脳内ぐるんぐるん、気持ち良い。
まず、プロローグの映像の美しさに、一発で引きこまれてしまう。
夫婦のセックスの最中に子供を事故で失うという最もあってはならない悲劇を、クリアなデジタル映像で見せる。モノクロのハイスピード撮影に被さる美しいアリアの歌。息子が落下していく描写などはファンタジックとさえ言える。美しすぎはしませんか。
この美しい映像のマジックによって、観る側である私はこの妻の哀しみが、強い母性愛からくる悲嘆だと思いこんでしまう。
同様にセラピストでもある夫も思いこんで、なんとかこの妻を救おうとする。
ところが、物語が進むうちに様子がおかしくなってくる。
夫による治療が始まった頃、妻は夫に「いつもあなたは自分や息子に距離をおいていた」と訴える。ちょっとドキリとする言葉ではあるが、これを機に何か、こちらの思い込みに疑問が生じる。
妻の恐がる森、かつて論文を書くために(この完成しなかった論文の内容がかなり重要なんでしょう)息子と2人で訪れた森に入り、事態が悪化していくなか・・・妻に息子を愛する優しい母という幻影は崩れていく。
靴を左右逆に履かせてしまう妻の様子からは子供に愛情を持てない様子がうかがえる。
妻はトラウマからセックスができなくなる。という事はなく、罪悪感からタブー視しても購いきれない性欲に自らの肉体を持て余しているようだ。
悲劇的事故の回想シーンでは、妻の視線は確実に息子の危険を捉えている。息子を助けられたのに、上り詰めようとする快楽から抜け出せなかったという事か。
はたまた、この回想こそが妻の思い込みなのか・・・。
結局、セラピストは家族を治療するものではないという通説通り2人の関係は崩れ始める。そのうえ患者と性の関係を持ってはいけないというセオリーにも反して、悪化していく状況。2人が愛し合うたびにどんどん悪化していくというのはセックス自体が罰のように感じられる。悲しくも恐ろしい。
夫はあくまで、母性愛の優しい妻の悲嘆を救おうとしていて、彼女の中に本当の姿(悪魔)を見出す事が遅れる。これも彼がセラピストであったためか。そして妻の中に悪魔を見出した時、そこにはもう妻への愛なんてものは介在しない。そもそも、この夫の妻や息子に対する愛情さえも疑わしく思えてくる。妻の事なんか何も解っちゃいなかった?
沢山の暗喩やヒント、キリスト教に詳しければもっと解る事もあるのだろうか?
言葉をしゃべるキツネ、子供を産み損なうシカ、瀕死のカラス・・・3人の乞食。
中世の魔女、拷問。
いったい2人がどのような決着を付けるのかと思っていたら、これは意外とアッサリめの決着で拍子抜け。
ところがエピローグがまた印象的。再びモノクロ映像にアリアが被り、森に入ってくる大勢の女性たち。
このシーンにどういう意味があるのか、こちらは知る由もないけれど、確実に何かを感じて全身に鳥肌が立った事だけは確か。
「奇跡の海」でもそうだったけど、一瞬の落胆から感動へ。
心憎い上手さがある人だ。
「本作品は過激な描写・映像表現を含んでおり、その箇所に限り、然るべき公的機関の指導により、修正を施しております」という断りがあり、残念だが、それはまぁ、止むを得ない事だと思う。
エピローグのボカシは監督自ら施したボカシなんでしょうね。
シャルロット・ゲンズブールの体当たり演技は納得のカンヌ主演女優賞。
痛いシーンもある作品だけれど、性描写、暴力描写が際立って激しいとは思わないのに、それでいて、この衝撃度の高さ。
奇才(鬼才)と言われるラース・フォン・トリアー監督。その名に恥じない問題作。
ヒューマントラストシネマ有楽町
愛し合っている最中に愛する息子を事故で失った夫婦。深い悲しみと自責の念からしだいに神経を病んでいく妻。セラピストの夫はそんな妻を森の中の山小屋に連れて行き治療しようと試みるが、事態は更に悪化していく。彼らが「エデン」と呼ぶ山小屋に救いを求めた現代のアダムとイブが、愛憎渦巻く葛藤の果てにたどりついた驚愕の結末とは・・・?
ラース・フォン・トリアー監督の衝撃の新作、エログロ目当てで観に行ったけど、そんな事は吹っ飛んでしまう、どえらい作品でした。
かなり難解な作品で、こういった場合、思考停止状態で考えるのではなく感じる事に専念するという手があるけど、暗喩やヒントが多く含まれ、ついつい無い頭で考えてしまう。
監督の意図、正解にはたどり着けない(正解など無いとも言える)が、ちょっと勝手な解釈をしたりして・・・無駄な抵抗。脳内ぐるんぐるん、気持ち良い。
まず、プロローグの映像の美しさに、一発で引きこまれてしまう。
夫婦のセックスの最中に子供を事故で失うという最もあってはならない悲劇を、クリアなデジタル映像で見せる。モノクロのハイスピード撮影に被さる美しいアリアの歌。息子が落下していく描写などはファンタジックとさえ言える。美しすぎはしませんか。
この美しい映像のマジックによって、観る側である私はこの妻の哀しみが、強い母性愛からくる悲嘆だと思いこんでしまう。
同様にセラピストでもある夫も思いこんで、なんとかこの妻を救おうとする。
ところが、物語が進むうちに様子がおかしくなってくる。
夫による治療が始まった頃、妻は夫に「いつもあなたは自分や息子に距離をおいていた」と訴える。ちょっとドキリとする言葉ではあるが、これを機に何か、こちらの思い込みに疑問が生じる。
妻の恐がる森、かつて論文を書くために(この完成しなかった論文の内容がかなり重要なんでしょう)息子と2人で訪れた森に入り、事態が悪化していくなか・・・妻に息子を愛する優しい母という幻影は崩れていく。
靴を左右逆に履かせてしまう妻の様子からは子供に愛情を持てない様子がうかがえる。
妻はトラウマからセックスができなくなる。という事はなく、罪悪感からタブー視しても購いきれない性欲に自らの肉体を持て余しているようだ。
悲劇的事故の回想シーンでは、妻の視線は確実に息子の危険を捉えている。息子を助けられたのに、上り詰めようとする快楽から抜け出せなかったという事か。
はたまた、この回想こそが妻の思い込みなのか・・・。
結局、セラピストは家族を治療するものではないという通説通り2人の関係は崩れ始める。そのうえ患者と性の関係を持ってはいけないというセオリーにも反して、悪化していく状況。2人が愛し合うたびにどんどん悪化していくというのはセックス自体が罰のように感じられる。悲しくも恐ろしい。
夫はあくまで、母性愛の優しい妻の悲嘆を救おうとしていて、彼女の中に本当の姿(悪魔)を見出す事が遅れる。これも彼がセラピストであったためか。そして妻の中に悪魔を見出した時、そこにはもう妻への愛なんてものは介在しない。そもそも、この夫の妻や息子に対する愛情さえも疑わしく思えてくる。妻の事なんか何も解っちゃいなかった?
沢山の暗喩やヒント、キリスト教に詳しければもっと解る事もあるのだろうか?
言葉をしゃべるキツネ、子供を産み損なうシカ、瀕死のカラス・・・3人の乞食。
中世の魔女、拷問。
いったい2人がどのような決着を付けるのかと思っていたら、これは意外とアッサリめの決着で拍子抜け。
ところがエピローグがまた印象的。再びモノクロ映像にアリアが被り、森に入ってくる大勢の女性たち。
このシーンにどういう意味があるのか、こちらは知る由もないけれど、確実に何かを感じて全身に鳥肌が立った事だけは確か。
「奇跡の海」でもそうだったけど、一瞬の落胆から感動へ。
心憎い上手さがある人だ。
「本作品は過激な描写・映像表現を含んでおり、その箇所に限り、然るべき公的機関の指導により、修正を施しております」という断りがあり、残念だが、それはまぁ、止むを得ない事だと思う。
エピローグのボカシは監督自ら施したボカシなんでしょうね。
シャルロット・ゲンズブールの体当たり演技は納得のカンヌ主演女優賞。
痛いシーンもある作品だけれど、性描写、暴力描写が際立って激しいとは思わないのに、それでいて、この衝撃度の高さ。
奇才(鬼才)と言われるラース・フォン・トリアー監督。その名に恥じない問題作。
ヒューマントラストシネマ有楽町